ダンナさま、61歳。
定年まで勤務した会社を、再雇用半年で退職。
その後しばらくは失業保険を受給しながら
主夫生活を謳歌(?)していましたが、
先月新しい会社に就職が決まり、
「疲れる」を連発しながら、約10年ぶりの電車通勤をしています。
そのダンナさまが求職中の話です。


経験のある方はご存知でしょうが、
失業保険を受給するには、4週間に一度の認定日までに
2回の就職活動実績を作らなくてはなりません。
認定日に、
 『働く意思はあって就職のために活動をしているけれど、
  意に反して仕事が見つからない状態』
であるという認定を受けて初めて、失業保険が支払われるわけです。

とはいってもいまの世の中、
60歳を過ぎた人の求人など数えるほどしかありません。
あっても低い時給で専門性など不要な求人ばかり。
こんな状況ですから、就職活動実績を作ろうにも
応募したい企業がないのが実情です。

そこでどうするかというと、
手っ取り早くハローワークが主催するセミナーに参加して、
活動実績を作ることになります。
ダンナさまもいくつかのセミナーに参加していましたが、
はっきりいって単なる実績数稼ぎ。
『履歴書の書き方』や『面接の作法』のセミナーなんて
新卒じゃあるまいし・・・ね。

でも、ひとつだけちょっとの興味を持って参加したセミナーがありました。
それは介護に関するセミナー。
ババがあんな状態ですからね、
なにか役に立つ情報があるかもしれないから
参加してみることにしたと言っていました。


介護の現場はどこも人手不足です。
このセミナーも、早い話が介護職なら今すぐに誰でも就職できるという内容。
ダンナさまが初めてハローワークの就職相談に行った時も、
 「60歳過ぎてますからね、ご希望の条件の就職は、なかなか厳しいですよ。
  介護職はどうですか?
  介護職なら今すぐにでもご紹介できますよ。」
と言われたそうですから、
深刻な人手不足の様子がひしひしと伝わってきます。


でも・・・。
ほんとうにこんなことでいいのでしょうか。


ババのお世話になっている施設の職員さんを見て思うのは、
介護の仕事のたいへんさ。
生半可な気持ちで介護職についても、長続きしないのは目に見えています。
実際、すぐにやめてしまう人が多いのでしょうね。
介護施設はどこも常時求人が出ているし、
ババのいる施設でも、若い介護スタッフの顔ぶれは
かなり頻繁に変わっています。

それなのに、
『仕事ないの? 仕事したいの?
 じゃあ、とりあえず介護。 まずは介護。 
 介護はいかが? お買い得だよ!』
とでもいうかのような、あまりにも安易な介護職への斡旋。
これはないよなぁと思ってしまいます。


かつて高度経済成長の頃、教師が不足して誰でも教師になれた時代に
『でもしか先生』という言葉がありました。
他にやりたい仕事がないから、『先生でもやろう』。
特別な技能が何もないから、『先生しかなれない』。
そんなネガティブな理由で教職に就いた先生を指して言った言葉です。

でもしか先生も困ったものですが、
『でもしか介護職』なんていうのはほんとうにナシにしてもらいたいものです。
いままで日本を支えてきた人たちの、生命と尊厳がかかっているのですから。

もう30年近くも前のことですが、
『らくごの ご』 というテレビ番組がありました。

笑福亭鶴瓶さんと桂ざこばさんの二人が
即興で落語を披露する番組なのですが、
噺の中には、その日の観客が挙げたいくつかのお題の中から
ゲストが選んだ3つのお題を入れなければなりません。
大好きだったんですよね、この番組。
落語家さんの噺の見事さに圧倒されるのはもちろんのこと、
ときにオチがつけられないと半泣きになるさこばさんを見るのも
おもしろくて。(Sっ気あり!)

その番組名の 『らくごの ご』 になぞらえて、
『かいごの ご』 というカテゴリを作ってみました。
ジジ・ババとの笑える話や、
公的介護保険制度と介護の仕事に携わる人たちのおかげで、
介護に溺れることなく介護の現場を眺めることができているゆずの
思いなどを、ここに放り込んでいきたいと思っています。


あ、余談ですが、ゆずの好きな歌手のさだまさしさんが
この番組にゲスト出演したことがありまして、
その時にさだまさしさんが選んだお題が
「 干瓢(かんぴょう)」 「北方領土」 「ト音記号」 の3つ。
このとき、「お前もこのお題で一曲作れ!」 と無茶振りされたさだまさしさん、
ほんとうに作っちゃったんですよね。
こうして出来上がった作品が、『オホーツクはるかなり』 という歌。
アルバムには収録されていませんが、
この曲がこんな経緯でできあがった歌だということを知っていると、
もしかして耳にすることがあった時には
ちょっとオマケの楽しみ方ができるかもです。

(1)からどうぞ


あの日・・・、2015年12月23日。

この日がゆずの生活を一変させる『大事件』の起きた日でした。
この時のことは、ちょうど1年ほど前、別のサイトに書いたことがあるので、
それを抜粋して転記することにします。
かなり長いですが、よかったらお読みください。

尚、冒頭の『左眼の手術』については、また機会があったら書くかもしれません。



(前略)・・・秋に手術を受けた左眼は無事に視力も戻り、2ヶ月ほど前からは夜の運転もできるようになりました。 PC画面を見続けてもあまり目の疲れを感じなくなり、手術前の『日常』に戻りつつあったのですが、あの日・・・、そう、12月23日、それまでこれが当たり前だと思っていた穏やかな生活を一変させる出来事が起こりました。
 
その日、昼までの仕事を終えてふらりと実家に立ち寄り、「昼ごはんまだなら食べていきな。」という言葉に甘えて両親と一緒に昼食。 午後2時頃に実家を出て家に戻り、そのあと夫と買い物に出ていた私の携帯に、実家近くに住む弟の奥さんから電話が入りました。 「お義母さんが救急車で運ばれました。 すぐに病院に行ってください。」 脳動脈瘤破裂によるクモ膜下出血でした。
 
病院に着くと、すでに母の意識はなく、ストレッチャーの上で手足を痙攣しているかのように震わせている母の姿があるのみ。 医師からは、「かなり重篤な状態です。 万全を尽くしますが、覚悟はしておいてください。」の言葉。 でも、テレビドラマで聞いたことのあるそのまんまの台詞をリアルに聞かされ、目の前に横たわる母を見ながらも、どこかわが身に降りかかった現実として実感できない自分がいました。
 
手術は深夜3時近くまで、10時間に亘りました。 その間は何も手につかずただただ祈るのみ・・・、と言いたいところですが、(一応)シッカリ者の長女の性(さが)でしょうか、駆けつけてきた親戚たちからは隠れるようにして、弟と葬儀の相談をしている私でした。
 
母は手術中に呼吸停止を起こしたりもしていたそうですが、それでも10時間の手術に耐えてくれました。 こっそりと葬儀の相談などしていた親不孝娘に、ザマアミロと舌を出していたかもしれません。 術後は救命救急病棟に移され、たくさんのチューブとモニターをつけられて、昼も夜も煌々と灯りがともりアラーム音が鳴り響くICUで24時間の監視の下、辛うじて命をつないでいました。
 
翌日、緊急連絡先として登録した私の携帯に、病院から電話がかかってきました。 すぐに病院に来てほしいと。 弟とともに駆けつけると、主治医から聞かされたのは、「新たな動脈瘤の破裂が確認されました。」
「心機能も腎機能も低下しているいま、2日連続で全身麻酔での開頭手術をすること自体にかなりのリスクがあります。 手術をしたところで血腫が取り除けるとは限りません。 昨日の手術よりもかなり厳しい状態です。 それにまた新たな動脈瘤が破裂する可能性もあります。 判断はご家族に任せしますし、もし再手術をということであればもちろん最善は尽くしますが、医師としてはこのまま手術をせずにおいてあげるのも一つの選択肢かと思います。」
 
母の生命に終止符を打つかどうかが自分の手に委ねられる。 それも数分のうちに結論を出さなくてはならない。 これはかなりの重圧です。 重圧であるはずです。 でも弟と私の意見は一致しており、思い悩むことなくすぐに結論に至りました。 「母の生命力に賭けてみたいと思います。 あと一度だけ、手術をお願いします。 もし手術中に何かあっても、それは運命だと受け入れますし、この先新たな出血が起きたとしたら、そのときはもう手術はせずに静かに逝かせてやりたいと思います。」
同意書にサインをするとすぐに始まった2度目の手術。 終わったのは6時間後の午後10時過ぎでした。
 
その日から、まさに目の回るような忙しさの日々が始まりました。 夫婦二人で生活していた両親、父は母にすべてを任せっきりだったようで、まずは物の在り処がわかりません。 保険証や通帳など個人のものはもちろんのこと、会社の登記の書類や保険証書など、重要なものが納めてある貸金庫のカギも見つかりません。 カギさえあれば代理人登録をしてある私が金庫を開けることは可能なのですが。 それ以外にも自治会のお付き合いやお寺とのお付き合い、母の友人たちとのお付き合いと、わからないことばかりです。
 
父は父で、一日三回出されたものを食べ、予約の日に病院に出かけるのが仕事のような生活でしたので、父の食事の世話もしなければなりません。 母のことが心配でたまらない父を朝晩病院に面会に連れて行き、自分の家の家事雑事に、もともとの昼の仕事、夜の副業もあって、1日があっという間に過ぎていきます。 車であちこち走り回るので、満タンにしたガソリンが5日でカラになります。 1日が40時間ほしい、カラダが3つほしい、心からそう思いました。
 
最低限その日にやらなければならないことをこなすと、倒れ込むかのように眠る。 そんな生活ももう1か月以上になります。 でも忙しいなりにペースがつかめてきて、こうして近況を記す時間をとることができるようになりました。 (これだけ書くのに4日もかかりましたけどね。)
先はまだ見えません。 現状、主治医からは、「これ以上の意識の回復は難しいだろうし、左半身マヒで寝たきりの生活になるのも避けられないだろう。」と言われています。 でも、たとえどんな形でも母が生きていてくれることに感謝しつつ、記憶のカケラの世界で生き、いろいろとおもしろいことを言ってくれる母の言葉に思わず吹き出したりしながら、日々を過ごしています。 自分でも信じられないのですが、この状況にありながら、ヘコンでないんですよね。 アタシってこんなにノーテンキだったっけ??
 
ありがたいことに病状の『緊急性』が下がり、特別な医療措置が不要になりつつある母は、明日抜糸、そして来週月曜日には転院することになっています。 転院先の病院は・・・(後略)



現在ババは要介護5で、上で書いた転院先のリハビリ専門病院での3カ月間のリハビリプログラムを終えたあと、施設で暮らしています。 ジジは要介護1ですが、なんとか一人暮らしができています。 今はダンナさまや叔母(ジジ・ババの義妹)の全面協力を得て、ジジ・ババに振り回されながらも、ジジ・ババとの時間を楽しんでいるゆずですが、ときどきこの二人から飛び出してくるエピソードの笑えること、笑えること。 これを自分ひとりで楽しむのは少々もったいない・・・。

というわけで、懲りずに駄文を読みに来てくださる皆さまに、おすそ分けすることにしました。 あまり頻繁に更新はできないと思いますが、また覘いてみてくださいね。
 
さて、復活ブログは、まずはババのことから始めましょう。

いままでにもこのブログに何度か登場しているババは、
対外的なお付き合いでは『余計なことは言わない上品で物静かな人』と
思われていたようですが、実はパワフルを絵に描いたような人。

会社経営現役時代は、一歩下がって控えめな社長の妻と見せかけて、
実はジジを掌で転がして会社を大きくし、
引退後はジジだけでなく自分の兄や姉、友人たちのために
走り回っていました。


また、半世紀以上も生きているゆずをつかまえては、
出来の悪い子ども扱い。
あれをやれ、これをしろ、手際が悪い、気が利かない・・・と、
ダメ出しのオンパレード。
出来が悪いことは重々承知していますが、ただ、
問答無用で襲いかかってくるババの価値観は、
『昭和』のままほとんど更新されていませんでしたからね。
ゆず自身、こんなババの毒気(?)に当てられてか、
精神科医のカウンセリングを受けていたこともあるくらいです。

ババは、「ホコリじゃ死なない!」と開きなおるゆずとは正反対で、
花と掃除が大好き。
家の中はいつもピッカピカです。
そんなババがゆず家を訪れると、決まって「ここはゴミ溜めか!」と
得意の毒吐きから始まります。

まぁ親なんていうものは、子どもに対して毒が吐けなくなったら
老け込むだけでしょうし、
ゆず自身も、『毒もゲンキの証拠』と、軽~くかわす術を
身につけていましたから、
それで親子関係が険悪になることはありませんでしたけどね。


こんなふうにゆずには厳しいババですが、
誰かがちょっと困った素振りでも見せると、
ピンクの愛車でビュイーーーンと駆けつけます。
そして友人たちはもちろんのこと、
兄であろうが姉であろうが(ババは4人兄妹の末っ子です)叱り飛ばし、
それでいて問題はちゃんと解決してきます。
ただ、時に暴走気味になるのが玉にキズ。
見ているゆずのほうがハラハラドキドキさせられることもしばしばでした。


ババは・・・、東奔西走・馬耳東風。
深謀遠慮と猪突猛進が混在し、気になることは、即断即決即実行。
胆大心小・大胆不敵かと思いきや、時としてフライングでSOS。

そんなババをクモ膜下出血が襲ったのは、一昨年の暮れ、
12月23日のことでした。 (つづく)
 
ご無沙汰でございます。(って、これ見てる人ほとんどいないだろうな。。。)


ブログ中断してから2年と数ヶ月。
この間、ホントにいろんなことがありました。

泣ける出来事、笑える事件、怒れる話、悔やまれる話・・・。
でも、何と言ってもいちばんの大事件は、実家の母(ババ)の病気でしょうね。
あの瞬間、生活がガラリと変わりましたもの。(詳しいことは後で書きます。)


で・・。


生死の境を一旦は越えながらも辛うじて生還したババは、脳に大きなダメージを受けたため、今は施設で暮らしています。
その結果、高齢の父(ジジ)は一人暮らしを余儀なくされることに。

この二人との会話が、まぁ笑えるんです。
これは書き留めておくのもオモシロイかも・・・。


というわけで、いままで書いていたような話に加えて、
ジジやババとの会話や介護の現場を間近に見て思うことなど、
また書いてみようかなと思った次第です。


「ゲンキにブログ復活!」 とまではいかないけれど、まぁボチボチ・・・、ね。
 
その13からどうぞ。

本日2度目のUPです。(珍しい。 きっと雨が降る!!)


さて、聖地から戻って、早やひと月半。
の~~んびりと書いていたら、
北から雪の便りが届く時期になってしまいました。

最後に聖地での写真、何枚かUPします。
よろしかったらご覧ください。
ただし、きれいな景色やキレイなオネ~サンの写真などは
一枚もありません。
悪しからず~~~。
その12からどうぞ。

作家先生の職権濫用によるラジオ見学を断念したゆずは、
イチゴさん妻の『お嬢サマ』に送っていただいて、Y形駅へ。
ロッカーから荷物を取り出して、新幹線に乗り込みます。

ほっ。
雨、降らなかったよ。(^-^)
その11からどうぞ。

翌日。
天気は晴れ。

この日は何の予定も決まっていません。
さて、どうするかなぁ。。。
その10からどうぞ。

皇大神社の黒獅子を見たあとは、
芋煮会の会場のあるT畠に移動します。

T畠はぶどうの産地。
見学のできるワイナリーもいくつかあるようですが、
その中でも多くの観光客が訪れるTはたワイナリーが目的地です。

このワイナリーを訪れるのは5年ぶり。
スイートピーの種まきで、初めて聖地を訪れたとき以来です。
あれからもう5年もたっちゃったのね。
その9からどうぞ。

恐るべし、雨オンナ相乗効果!!
朝は青空だったのに、ゆずとウサギさんが合流したとたんに、雨。

どうしよう、ホテルに傘置いてきちゃったよ。。。
だって、朝のあの青空。
まさか降るとは思わなかったんだもん。
(身のほど知らずと言わないで~~~!)
その8からどうぞ。

ウサギさんとの待ち合わせのためにN駅に行くと、
ちょうどロングシティー在住のプリンセスも着いたところ。
プリンセスとは4年ぶりです。

「お久~~~!!」
その7からどうぞ。

翌朝・・・。
この日は始発の新幹線で、ウサギさんがやってきます。
ゆずに負けず劣らずの雨オンナのウサギさん。
この2人が揃うと・・・。
その6よりどうぞ。

不覚にも、ロプロスさんの策略にまんまとハマったゆずとナースさん。
後ろの座席から流れる不穏な空気を感じ取ったのか、
このあとロプロスさんが、予定にはなかったS台プチ観光に
連れて行ってくださることになりました。
その5からどうぞ。

ランチのお店から10分ほどで着いたそのお寺は、
『竜宮門』と呼ばれる、
浦島太郎の話に出てくる竜宮城の入り口のような形の山門のある、
立派なお寺でした。
その4からどうぞ。

ここでその2で書いた話に戻りましょう。

この日の2週間ほど前、ロプロスさんから届いたメールには、
ロプロスさんがS台を訪れる理由が書かれていました。 
その3からどうぞ。

自宅から車で10分の駅から、
朝7時の『ひかり』に乗ったゆず。
次のN駅で途中下車し、
伊勢の名物『赤福餅』をお土産に購入します。

なぜに伊勢?? かというと・・・
その2からどうぞ。

4年ぶりの聖地訪問。
決行日は9月13~15日に決めました。

特に本家のイベントがあるわけではない今回の旅。
せっかくなら、一人旅よりは大人数のほうが楽しいですからね、
某SNSで仲間を募ります。
その1からどうぞ。

ナースさんとの牛タンランチ計画が進行する中、
ゆずはある聖地の住人に、メールを送っていました。
某ブログの読者(毒者ともいう)にとっての『聖地』ヤマガタ。
それも、県庁のある山形市のような、よく知られたヤマガタではなく、
ローカル鉄道FN線にゆられて1時間弱。
緑だけには恵まれた、そのヤマガタの田舎町を前回訪ねたのは、
4年前の夏のことでした。
ガソリン、高いですよね。

もちろんそれだけが理由ではないでしょうが、
最近の車のCMでは、『低燃費』という言葉がよく聞かれます。
夏休みが終わりました。
子どもたちにとっては残念な、
お母さんにとっては、ほっとする9月です。
(9)からどうぞ。

西へと走る新幹線は、2時間半で広島駅に到着します。
そこからは、1日に数本しかない三段峡行きの可部線に乗り換えるのですが、
なにしろ本数がありませんから、
三段峡行きを待っていると、日帰りができなくなってしまいます。

なので、本数のある可部行きに乗り、
可部駅までは車で迎えに来てもらうことになりました。
(8)からどうぞ。

日本の警察は優秀です。
それからわずか1時間ほどで、
交番のお巡りさんから連絡がありました。
(7)からどうぞ。

 : 「だからねぇ、そういうことはやってないんですよ。」

 : 「そこをなんとかお願いします。
     時間もないし、私ではもうどうしようもないんです。」

 : 「お困りなのはわかりますが、できません。
     なにか別の方法を考えてください。」

 : 「そこをなんとか・・・。
     別の方法がないからお願いしてるんです。」

 : 「だからねぇ・・・
(6)からどうぞ

6月に入り、K氏の来日の日程が決まりました。
ビッシリと詰まったスケジュールをぬって、
広島への日帰りが可能な日を選び、
広島のノボルさんに電話をかけます。

RRR・・・。 RRR・・・。
(5)からどうぞ。

大した期待もせずにNTTに問い合わせてみた
K・ノボルさんの電話番号。
電話に出た、ご年配と思われる声の女性に尋ねます。
(4)からどうぞ。

ゆずが思いついた方法。
考えてみれば、それはいちばん単純で、
何よりも先に試してみるべき方法でした。
(3)からどうぞ。

「なんとか叔父さんの消息を調べてください。」

こう言って二人がゆずに見せたのは、小さな紙切れ。
そこには、叔父さんの名前と、その時から30年以上も前に、
彼のイトコが日本の親戚を訪ねたときの、
住所と電話番号が書かれていました。

それだけの情報があれば、見つけられそうに思うでしょ。
でも、現実はアマくはありませんでした。
(2)からどうぞ。

オレゴンを発つ前夜、ホスト夫妻から呼ばれたゆず。
真剣な顔つきの二人の様子に、何ごとかと思っていると、
二人はゆずの前に、大きな紙を広げました。
1からどうぞ。

ゆずには、15年来のつきあいの『息子』がいます。
ゆずよりも年上の息子。
かつてゆず家に何度かホームステイした“ホスト・サン”の、
アメリカ人の男性です。